フレンドファインダーフレンドファインダーブログ

2006年08月15日

アメリカに「NO」という為に。

小泉首相が就任以来初めて靖国を終戦記念日に参拝した。
あ、やっぱりか、小泉君。
「公約」「公約」言っていたから、今年は終戦記念日に靖国を参拝するだるなーと思っていたら、やっぱり。

多分戦争には「良い」も「悪い」もない。
「良い」「悪い」というのは勝者の視点であって、敗者の視点もあると思う。
しかし人が殺されたともなると、誰かが責任を負わなくてはならないとも思う。
それがA級戦犯。

おいらは例えアメリカから押し付けられたものだとしても、民主主義が好きだ。
人を判断するのに「民主主義的か否か」という観点を用いている位に。

また戦争に「良い」も「悪い」もないならば、社会においても「良い」も「悪い」もなく、「良い」「悪い」というのは社会の勝ち組の判断で、勝ち組が負け組へと没落すれば、また社会は変わると思う。

しかしそれでも、例えば山口母子殺人事件のように、母親が多感な少年の頃に自殺して、感情が麻痺したとしても、「情状酌量の余地がある」だけで、人を殺した責任を負わなければならない。
果たしてあの戦争で誰が責任を負うべきなのか?

個人的には日本には戦争の罪はそれほどはないと思う。
アメリカが物資の供給ラインを封鎖したことによる真珠湾攻撃、列強が植民地化を推し進めていたという時代背景。

しかしそれでも人が大勢死んだ責任は誰かが負わなければならないので、負うのは敗戦国である日本。
日本は韓国を併合した。
日本は中国を侵略した。
日本はアメリカを奇襲攻撃した。(宣戦布告を伝達するのが遅れただけという話もあるが)
社会の構造と大して変わらない勝者有利の構造。

日本は戦争に負けたこと、戦争で甚大な被害を与えたこと、あるいは戦争で甚大な被害を与えられたことを考慮して、「平和への祈り」を軸として外交すべきだと思う。

またそのような外交だとアメリカと敵対するので、アジアと友好な関係を結び、アメリカに「NOと言える日本」を目指して欲しいと思う。

終戦記念日における小泉首相の靖国参拝は、アメリカ重視の外交に支えられているのかな?
アメリカは同盟国だけれど、裏切られた時の担保はどうするのかな?

小泉首相の靖国参拝は、目先の「公約」に縛られてマクロ的な視点を失ったものだと思う。
マクロ的には日本は担保としてアジアとの友好な関係が必要だと思うのだ。  
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2006年04月06日

坂本龍一の音楽

坂本龍一の音楽に触れるきっかけとなったのは、村上龍の存在だった。
おいらは昔、村上龍のファンで、村上龍の小説「69」と「限りなく透明に近いブルー」を高校の頃に読んでいたものの、ファンになったのは「愛と幻想のファシズム」がきっかけだった。

「愛と幻想のファシズム」を読んだ頃、おいらはオーストラリアにいた。
おいらはホームステイをしていて、ホームステイで一緒だった英語がほとんど喋れない歯科技工士のおじさんと毎晩のように話し込んでいた。
「支配・被支配」という「愛と幻想のファシズム」のテーマの一つであるものが、結局は社会においてリアルなものであり、すべてはオブラートに覆われているに過ぎないということは、毎晩徹夜して一生懸命に働いていた歯科技工士のおじさんも同意するとこであったが、もっとも重要なテーマである、「支配・被支配」を超えるもの、「支配・被支配」を空虚としてしまうものの存在は語る終いだった。

しかし愛と幻想のファシズムを「支配・被支配」、あるいは支配をする過程で生じる意思との同化のカタルシスの物語と読む読者は多い。
そういう読者はカリスマであるトウジの印象は強いが、もう一人の主人公であるゼロの印象は薄いと言う。

でも重要なのはゼロだと思う。
黄金のエルクが自らをも超える意思との同化とするならば、ゼロは意思の支配をも拒むキラキラと光ったサーモンの映像のような存在で、イメージを体現していると言えるかもしれない。
ゼロが残したもの。
それは焦点が合っていないキラキラと光ったサーモンの映像。


おいらが坂本龍一を知ったのは、初めて知ったのは中一の時の「ライディーン」のヒットだけれど、もっと深く知ったのは、村上龍の小説「愛と幻想のファシズム」との出会いからで、坂本龍一の音楽との出会いはおいらにかなりの衝撃を与えた。
その衝撃を一言で言えば、坂本龍一の音楽の前ではロックやジャズを含むすべての音楽が「お涙頂戴の浪花節」に聞こえてしまうということであり、その衝撃は坂本龍一の音楽の絶対性、その絶対性はとてつもなく謙虚な地点にあるのだが、そういう絶対性に支えられていたのだと思う。

キミハ ハジヲ シラナイノカ?
オンガクハ カミサマカラノオクリモノデアリ キミガドウコウスルトイウモノデハナイノダ。
ムロン オンガクヲ カンジョウヒョウゲンノドウグニナリサゲルノハ ノゾマシクナイ。  
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2006年04月05日

あとがき(アートと音楽と僕と君)

「アートと音楽と僕と君」は思わぬ反響を呼んでしまった。
それはカフェ友からの絶交宣言。

あ、いや、絶交宣言はされていないけれど、勝手にカフェ友から削除されてしまったのだ。
なんの断りもなしに。
なんて、Japanese.

「本当にパリに住んでいるのか?」「パリに住んでても日本の文化をパリに持ち込んでるだけで、パリの文化を理解してないのではないか?」「フランス人の友達はほとんどいないのではないか?」「フランス人の友達が例えいても付き合いが浅いのではないか?」と思ったけれど、とりあえず、なんの理由も話さなければ、波風を立てることはない。

これこそが日本人の「謙譲の美徳」、「和の精神」。


おいらはアメリカに五年半、オーストラリアに11ヵ月いたけれど、アメリカ人とかオーストラリア人とかとはそういうことはなかったなあ。

しかしアメリカ人が「YES」「NO」をハッキリ言うというのも幻想で、大人のアメリカ人は「YES」「NO」を言う場合でも日本人と同じように相手を気遣って遠まわしに言う。
物凄くストレートに「YES」「NO」をハッキリ言うのは、「YES」「NO」をハッキリ言えない反動でハッキリ言ってしまう日本人か、文化のぶの字も知らない野蛮人か、どちらかだ。
ただしアメリカ人はやたら説教好きで、お節介だけれど。


「アートと音楽と僕と君」の基本概念は絶望である。
絶望から希望へとと言い換えてもいい。

例えば、「大切なものから絶対的に遠く隔たれている」と感じると人間は絶望する。
しかし、人間は絶望するのが嫌なので、「大切なものから絶対的に遠く隔たれている」という感覚から目を背けようとする。
そして、いつしか日常の中に「大切なものから絶対的に遠く隔たれている」という感覚は埋もれてしまい、「大切なもの」がなんだったのかさえ思い出せなくなってしまう。

それはある種の諦めではないのか?
絶望よ、again!



「ゴールに辿り着いたと認めた瞬間に、未来は消えてしまう。途上にいて、しかもそれを楽しんでいる時、わたしは未来を手にすることができる。」(村上龍著「KYOKO」より。)  
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2006年04月05日

アートと音楽と僕と君

アートを産み出せ
絶望しろ

音楽で唯一アートの領域に入っているのは坂本龍一の音楽で、坂本龍一の音楽には坂本龍一自身はいない


アートを産み出せ
絶望しろ

坂本龍一以外の音楽は結局のところお涙頂戴の浪花節か自己陶酔で、謙虚さが微塵もない


アートを産み出せ
絶望しろ

日常に埋もれるな
空間を創出せよ


アートを産み出せ
絶望しろ

君の存在が僕を絶望から救った
君が僕のものでもないとしても君が存在することが


アートを産み出せ
絶望しろ

もはや君との接点は絶望の先にしか見い出せない



君。
僕。

アート。
音楽。


絶望と希望。
アートとアイデンティティ。


絶望の先で僕達は透き通った音楽に包まれる。
空間を優しく包み込むとても透き通った音楽に。
僕達は。  
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2006年03月23日

野球とベースボール

昨日か一昨日にもベースボールを「Yakyu」と表記し、今回は「Yakyuが勝った」と評したアメリカの新聞があったけれど、今日もベースボールを「Yakyu」と評する記事があった。
「For the Love of Yakyu」。
ニューヨークタイムズ。

元々は読売新聞が紹介した記事だったけれど、『「日本ヤキュウ」、NYタイムズが社説で称賛』」という言葉と「For the Love of Yakyu」というタイトルに惹かれて原文を読みたくなった。
幸いにもニューヨークタイムズはネットで検索できるし。

検索して原文を読んだ結果、「For the Love of Yakyu」というのは多少具体性を書いたタイトルで、直接的には日本野球の歴史の紹介に留まり、間接的には、他の参加国・地域のファンの熱狂ぶりを知ることにより、アメリカが「野球への愛を再発見することになるかもしれない」ということだった。

つまり「For the Love of Yakyu」というのは、「ベースボールへの愛」をバリー・ボンズのドーピング疑惑のために失いつつあったアメリカ球界との対比として成立していると。
多少期待外れ。

あ、いや、でもキューバ戦では、日本はベースボールではなく「野球」をしていたように感じた。
そんな感じは韓国戦でもアメリカ戦でも感じなかったのになぜだろう?

しかし「野球」はベースボールを倒した。
今まで「野球」という言葉にはベースボールのようには力がない、敢えて言えば「卓球」と「テニス」程度の力の差があると思っていたけれど、「野球」はベースボールと対等に戦えた。

なんか「野球」のイメージが変わったよ。
「日本にはベースボールはない。あるのはベースボールと異質の野球だけ。」と言ったのはホーナーだが、野球には感動のドラマを作る力があるし、多少土臭くっても、ベースボールの優秀な投手から「技」でヒットを打つ力もある。


「For the Love of Yakyu」

ヤキュウへの愛のために。
ヤキュウを愛する人々のために。  
Posted by pennyroyal-tea at 23:12Comments(0)TrackBack(0)

2006年03月21日

WBCの感想

WBCで優勝したのはいいけれど、なんだか欲求不満。
いや嬉しいのは嬉しいのだけれど、それほどは嬉しくないような?
例えれば荒川静香が金メダルを取った時の嬉しさを100とするならば、嬉しさは30とかその位。
あんなに緊張して試合を観ていたのに。

原因はスッキリしない勝ち方にあると思う。
スコア上は10対6で4点もの差があったけれど、得点差とは関係なく全体的には日本がかなり押されていた印象が。
あと9回ゲームがあったらもしかして逆転された?

王ジャパンにはもっとスッキリとした勝ち方をして欲しかったよ。
ゲームとしてはとても面白かったけれど、韓国戦で垣間見せた「最強王ジャパン」のオーラとも言うべきものを。
ある一場面ででも。

そう、なにを隠そうおいらは、サッカーでも日本代表を応援していながら、余りにも「弱い」と思うと、そんなに弱いなら負けちまえー、負けてスッキリしてしまえーとか思ってしまうのだ。
実力に見合った成績を、というか。

ただし今回の代表はそれほど弱くなく、実力的にはキューバと互角。
また今回の代表と過去のオリンピック代表との違いは、キューバの良いピッチャーからでも得点をあげれたということかな?

それにしてもイチローは今日も大活躍で、有限実行ですな。
カッコエー。  
Posted by pennyroyal-tea at 23:52Comments(2)TrackBack(0)
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